ここがどこかになってゆく。

 

波の音がする。
海の、潮の香りがする。
夏草の少しだけ苦い香りと混じって、隣に座る君の匂いがする。
ただ、黙って座っているだけなのに、いろんなことを話しているよう。
二人とも、さざ波や、夕暮れや、風をみているだけなのにね。

君の体温をどこにも感じていないのに、何か、一番綺麗なものに触れているみたい。
そんな、小さな微笑みをつれてくる、幸せな空想。
今、この世界に...少なくとも、視界の届く範囲に、僕と君しかいないような錯覚。
この夏のゆるい空気の中に、僕と君の思いだけが充満しているよう。

だから 何も話さなくても、見つめ合わなくても、
君は僕をわかってくれて
僕は君をわかっているような
そんな、
甘い、甘い幻想。

それは、静かで優しい、僕たちだけの幸せな時間。

 

「もう行こうか...」

先程まで黙ってすぐ隣に座っていた氷河が、軽く振り向いて瞬を見る。
夕暮れの、波長の長い光がその輪郭を縁取っている。

「..........うん」

数秒、その瞳に見入った後、言葉だけで瞬が応える。
まるで心ここにあらず、といった様子に、不思議そうな顔をして氷河が尋ねる。
「何?」
「......綺麗だね」
「...?」
僅かに首をかしげた拍子に、金色の髪がぱさりとその頬に落ちる。
「黄色くって、トウモロコシのふさみたい」
「................」
氷河は「綺麗」の対象が自分の髪のことだと解釈しながら、くすくすと面白そうに笑っている瞬の、風にゆるく揺れる髪をつまんだ。
「おまえの髪は柔らかくって、綿みたいだ」
言い終わらないうちに、身体をひねって手の中の髪に口づける。
「......」
驚きもせず、すぐ目の前でこうべをたれる氷河の、さらりとした金色の髪に瞬もそっと頬を寄せる。
その髪の匂いが自分の髪に移ればいいのに...と、優しく頭を擦りつけながら。

「......トウモロコシは訂正...」
「何故...?」
瞬の頬の心地よい重みを後頭部に感じたまま、瞳を閉じてその髪の感触を探っていた氷河の唇が尋ねる。
その答えを欲しいのではなく、ただ、会話をつなげるだけの、瞬の声を聞くためだけの問いかけ。
それがわかっているかのように、つぶやくような小さな声。
「氷河の髪は......ちょっとクセがあるけど...まっすぐだし.....
 ......さらっとしてるし...」
金色の糸の質感を確かめながら、瞬もまた、瞳を閉じる。
「こんなに暑かったのに......氷河の髪........ひんやりしてる....」

「あんな...青い匂いじゃないし...... ...氷河は...氷河の香りがする.......」

耳元でささやかれる恋人の言葉に耳を傾けながら、薄茶色の髪にふれていた唇を離して、氷河は僅かに身体を起こす。
自分に覆い被さっていた瞬の顔を見上げるような体勢で、触れるだけのキスをした。

「........瞬は...髪も、何もかもやわらかい......」
そっと唇を離し、髪の一束をつかんだままの手の甲で、瞬の唇をなぞる。
浅い海のような瞳で、その表情をのぞき込みながら。
訴えるような視線を優しい角度で捉えて、瞬もまた氷河の頬に手を伸ばす。
青い瞳が幸せそうに細められる様子に、
よく似た微笑みを浮かべながら。

「帰るのがイヤになるな」
瞳を更に細めて、氷河が片頬で軽く笑う。
「じゃあ、ここにいようよ」
「ここがいい?」
「うん」
「瞬がそういうなら」
当たり前のようにさらりと言って、手の中の瞬の髪を離す。
同じ流れでその肩に手を回し、抱き寄せて直接髪に顔を埋める。

「本当にここでいい?」
くすぐるように、髪の上から瞬の耳元にささやく。
尋ねていると言うよりも、念を押すように。

それが何の為か、知ってか、知らずか。

氷河の鼻先で、瞬のやわらかい髪が小さく頷いた。

ドライブの途中で見たひまわり畑の黄色、夕暮れまで見つめていた海の青さ。
そのふたつの色を持った恋人の背中に、砂浜の白さに似た腕をそっとまわす。

氷河の肩越しに見上げた空はいつの間にか明度を落とし、薄く曳かれた三日月だけが、閉じた瞼の向こうで輝いていた。



FIN